【下野康史の旧車エッセイ】 スズキ・マイティボーイ

f:id:hondaaccess:20211008080537p:plain

記事提供元/くるくら
文/下野康史

 

自動車ライター下野康史の、懐かしの名車談。東京五輪の年に生まれた、国産車初の「GT」。

 

スズキ・マイティボーイのイラスト

イラスト=waruta

 

 オイルショックと排ガス対策に翻弄された70年代。化石燃料の枯渇や地球温暖化という新たな問題が重くのしかかり始めた90年代。そのあいだに挟まれた80年代のニッポン自動車界は、束の間、先生のいない教室のようだった。つまり、いま振り返ると、楽しいクルマの時代だった。

 83年に登場したスズキ・マイティボーイも、そんな時代を象徴する、ってほどの大作ではないものの、「なんでもあり」の80年代が生んだ、楽しいクルマの1台である。

 軽の2ドアクーペ、セルボのボディ後半部を切開して、小さなピックアップトラックに仕立てた。広告コピーは「スズキのマー坊とでも呼んでくれ」だった。

 もうひとつ「金は無いけど目立ちたい」という直截な謳い文句もあった。商用車登録で、価格は45万円。4バルブ・ツインカムターボの高性能モデルに注目が集まるなか、財布の軽い若者にやさしい低価格も話題のひとつだった。

 当時の軽は550cc。ボディの全長枠は今より20cmも短い3.2m。しかも、ボンネットのあるクーペから無理やりつくったトラックだから、トラックとしての機能は知れていた。開閉可能なアオリは後部のみで、荷台寸法は奥行き68cm、幅115cm。覗き込むと、笑っちゃうほどの狭さである。自転車だと、小径タイヤのBMXを載せるのがやっとだった。

 なぜそんなことを知っているかというと、当時、映画「E.T.」に影響されて買ったばかりのBMX(エリオット少年がカゴにE.T.を乗せて空を飛んだ自転車)を、試乗のとき、撮影の小道具に使ったからである。

 でも、マー坊を買って、荷台が狭いと文句を言った人はいなかったと思う。フロントからドア、ピラーまではセルボと同じ。トラックにしては異様にあたまでっかち尻すぼみなプロポーションそのものが、このクルマのチャームポイントだったのだ。

 キャビンはふたり乗りだが、シートの後ろには収納スペースがあり、カメラバッグや脚立や三脚など、プロカメラマンの機材がぜんぶ収まって感心した。バックレストが大きくリクラインするのも、キャブオーバーの軽トラにはないスペックで、デートカーとしてのポイントも高かった(?)。

 3気筒エンジンのパワーはたったの28ps。しかし、車重も520kgと軽かったので、けっこうよく走った。狭くても、荷台の最大積載量は200kg。そのため、リーフスプリングのリアサスペンションはかなり固められ、乗り心地はハードだった。現在も路上でごくたまに見かけるが、たいていは外観をやんちゃにイジってある。

 83年2月の発売直後、町なかで試乗車を撮影していると、ひとりのギャラリーに声をかけられ、「自分でつくったんですか?」と聞かれた。当時、イラストの世界で流行った"ヘタウマ"ふうのカタチが、そんな質問をさせたのだと思う。

『一般的な軽トラックとは違って、後部荷台のアオリ(荷台の周囲を囲む部分)は後部の1枚のみ。

『一般的な軽トラックとは違って、後部荷台のアオリ(荷台の周囲を囲む部分)は後部の1枚のみ。

インパネは直線的かつシンプル。正面だけを見ている限り、軽トラックの雰囲気はない。

インパネは直線的かつシンプル。正面だけを見ている限り、軽トラックの雰囲気はない。

「金はないけど目立ちたい」というコピーを体現した、赤い布地に黒いストライプのシート。

「金はないけど目立ちたい」というコピーを体現した、赤い布地に黒いストライプのシート。

 

文=下野康史 1955年生まれ。東京都出身。日本一難読苗字(?)の自動車ライター。自動車雑誌の編集者を経て88年からフリー。雑誌、単行本、WEBなどさまざまなメディアで執筆中。

 


 

f:id:hondaaccess:20211008080537p:plain

※この記事は、くるくらに2017年1月10日に掲載されたものです。