【下野康史の旧車エッセイ】 日産・スカイライン あの頃、僕も、君も、みんな若かった。

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記事提供元/くるくら
文/下野康史

 

自動車ライター下野康史の、懐かしの名車談。今回は「日産・スカイライン」。

 

日産スカイラインのイラスト

全長×全幅×全高:4440mm×1590mm×1380mm/排気量:1998c/重量:1200kg(GT-X)

イラスト=waruta

 

 1974年、19歳で免許をとり、初めて手に入れた車が72年型スカイライン2000GTだった。スカイラインとしては3代目。すでに次の「ケンメリ」が出ていたが、セダンらしいボクシーなスタイルのほうが好きだった。旧車の世界だと3代目は「ハコスカ」と呼ばれているが、現役のころにそんな呼び名はなく、もっぱら「スカG」として親しまれていた。

 3代目は、スカイラインとしては最後のキャブレターエンジンである。ぼくの車は2000GT−X。ながーい直列6気筒エンジンにイスラム教のモスクのようなカタチのSUキャブレター2基を備え、シングルキャブのGTより10psパワフルだった。

 だが、日産の中古車センターで見つけた時、ひとつ問題があった。AT車だったのだ。まだAT限定免許なんてものは考える人すらいなかった時代である。当然、自動車学校の教習車はMTだった。逆に言うと、"走り"で売るスカGのATモデルというのは稀少価値があったのかもしれないが、駆け出しのカーマニア(死語?)には許せなかった。

 でも、目の前にあるのはGTよりはるかに数が少ない130psのGT-Xである。店の人にイチかバチかで聞いてみた。「これ、マニュアルに載せ換えてもらえませんか?」。すると、答はイエスだった。少しお金と時間はかかったが、なんとMTに換装してくれたのである。繰り返すが、ディーラーの中古車センターである。今ではとても考えられないことだろう。いい時代だったのだと言いたい。ただし、GT−Xが5段だったのに対して、付いてきたのはGTと同じ4段MTだった。もしまだどこかに4段マニュアルの白い72年型スカイラインGT−Xがあったら、それ、ぼくのですから。

 そのスカGには本当によくお世話になった。怖いもの知らずでよく遠出もした。買ったのは秋だったが、その冬にはスノードライブに出かけた。関越道はまだ全通していなかった。東京から国道17号を北上して新潟へ出て、日本海沿いに山形県まで走った。一緒に行った大学の友人は冬の日本海が似合うカッコイイやつだったのに、免許を持っていなかった。帰路は渋川から100㎞以上延びるスキー帰りの大渋滞にはまったが、ツラかった記憶はまったくない。

 失敗もした。ほやほやの初心者だったころ、近所の踏切に入ろうとしたところで、クラッチミートをミスってエンストしてしまった。すると、警報機が鳴り始めた。すぐにリスタートを試みたが、ちょっとカブり気味のSUツインL20型エンジンは何秒間か再始動を拒んだ。ほどなく遮断機の棒が下りてきて、ボンネットの上にボンと着地した。やっとエンジンはかかったが、バックはできなかった。フェンダーミラーの根元に首尾よく遮断棒がひっかかり、それ以上、後退することができなかったのだ。「大学生の乗り回すスカG、踏切で事故」という新聞の見出しが頭をよぎった。

 でも、ことなきを得る。踏切待ちをしていたおじさんが遮断棒を持ち上げてくれたのである。

 


 

文=下野康史 1955年生まれ。東京都出身。日本一難読苗字(?)の自動車ライター。自動車雑誌の編集者を経て88年からフリー。雑誌、単行本、WEBなどさまざまなメディアで執筆中。

(この記事はJAF Mate Neo 2015年5月号掲載「僕は車と生きてきた」を再構成したものです。記事内容は公開当時のものです)

 


 

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※この記事は、くるくらに2019年06月28日に掲載されたものです。